体臭対策

自分に合った体臭ケア

「人の態度・しぐさ・うわさ」が気になる人は、勇気をもって旅に出よう!

■想像力の必要性

ドイツの教育学者のシュタイナーという人は、人間は生まれてから大人になるまでに、「4つの世界」を経験しながら成長する。と言っています。それは、

「感覚の世界」(0歳〜1歳)→「空想の世界」(1歳〜5歳くらい)→「現実の世界」(5歳〜11歳)ときて、最後に「抽象の世界」(思春期以降)を体験して大人になることができるというものです。

抽象の世界とは、「善悪」「真理」「正義」「美」「愛」「友情」といったものですね。
つまり、すべて「目に見えないもの」です。

石ころは道端に落ちています。タンポポは道端に咲いています。全て見えています。

でもその石ころの「硬さ」は石ころそのもの、タンポポの「可憐な美しさ」はタンポポそのものに元々備わっているわけではないのす。
その石ころをみて、「硬そう!当ったら痛そう!」と感じ、そのタンポポを見て「可愛い!なんていとおしい!」と感じるのは、全て心の中での出来事です。
実際には見えていないものを、あなたが、心で「その石=硬そう」「そのタンポポ=可憐」と「見ている」からです。
このように実際には見えない事柄を心で見ることを「想像する」と言います。

想像する力を想像力を呼びますが、この想像力を養うことは並大抵のことではないのです。

以前、神戸でおきた連続児童殺傷事件の加害少年Aは、「石を投げてネコを虐待したり」「小さな子供の首を切って快楽にふけったり」しましたが、はたしてこの「想像する力」が備わっていたのでしょうか?

彼には「空想力」はありました。自分のことを「透明な存在」など書く表現力は、「空想力」のたまものです。
でも、石をぶっけられたネコの痛みや、子供を殺された親の悲しみが分かっていたとは思えません。
ネコの痛みも親の悲しみも、現実には見えないことだからです。
現実と空想とが明確に区別できない「仮想の世界」に生きていた少年Aにとっては、ネコの痛みも親の悲しみも全て架空の出来事だったのです。

私たちが生活する「世間」は、人と人の間にあります。
善も悪も、真実も、愛も友情も美でさえも、みな「人と人とのつながり」の中にあるのです。

「人」は見えますが、人と人との「つながり」は見えません。だから「渡る世間は鬼ばかり」に見えるのです。想像上の鬼をうまく想像できる人が「人と人のつながりの世界=世渡り」のうまい人なのです。

動物のように本能行動で成り立たない人間社会で、人と人との間をつないでいるものは、この「想像」という高度な心の働きのおかげなのです。

では、この「想像力」を養うにはどうしたらいいのか?

それには2つの方法があると思います。

第一の方法は、シュタイナーも言っているように「現実体験」を十分させることです。

過去の事実から将来の真実を推定する力も「想像力」の要素ですので、「現実体験」が豊富であればあるほど想像性の幅が広がるのです。

「現実体験」とは、生の体験・実体験・五感を十分働かせた体験のことです。
「五体不満足」でもりっぱな人はいますが、「五感不満足」では想像力は養えません。


では、五感を十分働かせるにはどうしたらよいか?

何はさておき「自然体験」でしょう。
少年期には、海や山の大自然の中で、現実を肌身で感ずることが必要なのです。

もうひとつの大切な現実体験は「人間関係」体験です。

子供たちは「あそびの世界」の中で人間関係を学びます。
あそびが必要なのは、「けんか」ができるからです。
子供たちに「けんか」が必要なのは、「仲直り」ができるからです。
子供のけんかは大人の喧嘩と異なり、後に残ることはありません。
「けんかしても仲直りができるんだ」という経験ほど自信になることはありません。

だから、子供たちには、十分けんかをさせるべきなのです。

もうひとつ、大切な人間関係の体験があります。 

それは「死」です。

現代は死が身近でなくなりつつあります。
今こどもたちが、おじいちゃん、おばあちゃんの死を家で立ち会うことはほとんどありません。
病院死は、死に行く身内が、第三者の死となって実感がないのです。
「死んだら元にはもどらない」という現実感の喪失も、最近の少年少女犯罪に一因でもあると思います。
テレビゲームでの死は、たとえクリアーしても、翌日電源をオンすれば、再びよみがえることは可能です。
でも現実の死の向こうは、「無」なのです。「無」という存在を知るのも想像力しかないでしょう。


想像力を養うための第二の方法は、「ほめる」ことです。

子供たちは、「ほめられる」ことで、「何がよいことで、何が悪いこと」かを知ることができるのです。
「ほめられる」ことで、空想の世界から現実の世界に、さらに抽象の世界にわが身を置き、そこで努力するエネルギーになるのです。
いつも60点の子が80点をとったとき、信頼している親から「ほめられた」なら、次回は90点をとろうとさらに努力するでしょう。ほめられるとが、エネルギーになるのです。
ほめられることで、「何がよいこと」かを知った子は、次に、「何が真実なのか」を知りたくなるのです。
何が真実かを知った子は今度は「何が正義か」を、さらに「何が美か」を・・・と、さまざまなに想像力を働かせ、抽象の世界にどんどん興味をいだくのです。

これが「大人になる」ということなのです。

大人になるための「想像力」の必要性がお分かりいただけたでしょうか?

長年体臭の治療に携わってきた私が感じているのは、この「想像する力」こそ、体臭に悩む人が最も必要とする力ではないか、ということです。

ここで、「読者の共有メール」をじっくりと読んでみてください。

いかがでしたか?

体臭で悩む人の多くは、「人が咳き込んだ」「人がくしゃみをする」「人が鼻に手を当てる」「人に指摘される」といった「他人の行動・行為・言葉」がその悩みの原点となっていることが理解されたでしょう。


■共感すること

たしかに「人が自分を避ける」「人が咳き込む」「人がうわさをする」という行為は、目の前の現実でしょう。

でも、「人が自分を避ける」という行為は、あなたの体のニオイが原因とは限りません。相手がたまたま一人になりたかったためかもしれません。
あなたの体臭が原因で、くしゃみをしたり咳き込むこともあるかもしれません。でも、その人がたまたま花粉症や風邪を引いても同様な態度はとるでしょう。

あなたが現実に見えているのは、その人の結果としての行為であり、その人の心の中の「動機」までは見えてはいません。
その人のある行為の本当の動機が「見える」のはあなたが「想像力」を正しく働かせたときのみです。

しかし、現実体験に乏しい「空想力」でなら、たまたま「一人になりたい」という動機を「自分を避けている」と誤認することもあるでしょう。
「空想」がさらに発展して「妄想」になったなら、「私が臭うのは確実です。なぜなら私が部屋に入っていくと、必ず人が咳き込むからです」と、原因と結果とを間違って関係づけることが多いのです。

この状態を医学的には関係妄想と呼び、ニオイについては「自己臭」とも言います。

もう一度言いましょう。

共感とは相手の立場で相手の気持ちを推し量ることです。
こちらの気持ちを相手に「投影」することではありません。

例をあげましょう。

吉川英治の「宮本武蔵」にこんな場面があります。修行中の武蔵が道を歩いていると、野良仕事の老人が、異様な殺気を発していた。この殺気は何事か?と武蔵が身構える。老人は答えていわく「あんたが感じた殺気は、あんた自身が発したものじゃ、ワシはそれを鏡のように返しただけだ」と。

老人が何を言おうとしているかお分かりでしょう。

あなたが他人から感じることは、全てあなた自身の「心のありよう」を反映しているのです。

よく言うでしょう。「あの人とはどうも馬が合わない」「虫が好かない」と。でもそれは違います。合わないのは、あの人の馬ではなく、あなたの馬の方なのです。好いていないのは、虫ではなく、あなたの心なのです。

私が何を言いたいかも分かるでしょう?

「他人が自分を避ける」と感じるのは、「あなたの」方から他人を避けているからです。
「他人が咳き込む」と感じるのは、「あなたの」心の中が、咳き込みを「予感」するからです。
「人がうわさをする」と感じるのは「あなたの」心の中で、うわさを「予感」するからです。

競馬でもそうですが「予想」はハズレます。でも「予感」というものは不思議に的中するものなのです。

予感が的中するのは当たり前です。なぜなら、あなたが予感する出来事は、全て「こちら側(あなたの側)の世界」に属することだからです。
予感とは「自分の立場」から「自分の状況」を自己誘導的に導く推察なのです。

このような推察は、共感するということの前提である「相手の立場」から相手の気持ちを推し量るということと対極にある感情と言わざるを得ないでしょう。

ですから、「自己臭」とは 他人と自分を関係づけることを特徴としていますが、その本質は「他者の不在」つまり「共感する対象の不在」なのです。共感する相手が見出せなければ、想像力を発揮することはできません。
自己臭の原因は、想像する「力」の欠如ではなく、想像する「場」の欠如とも言えるのです。

ではどうしたらよいか?

共感を実感するためには、まず「自己の世界」=「日常の世界」から一旦離れて、「あちらの世界」から自己を見つめざるを得ない状況に自分自身の身を置くことが必要なのです。
他人と「関係づける」のではなく、他人の中に「入っていく」ことです。

そこで、提案です。

みなさん!現実体験の旅に出ましょう!
旅と言っても、パリやロンドンではありません。
アジアの途上国での「汗かき体験」の旅です。

以前にも書きましたが、私はフィリピンに子供たちのための小さな日本語教室をボランティアで運営しています。
フィリピンは超暑いのです。しかもエアコンは贅沢品ですから当然ありません。子供たちは扇風機一つで、汗だくだくとなって勉強しています。
彼らは貧乏ですから、教科書やノートなどないものは一杯「あります」。

しかし、体臭や汗の悩みは一切「ありません」。

肩と肩を寄せ合い、肌と肌を触れ合っての生活は、彼らに「体の匂い」が人間関係の阻害要因ではないことを身近に感じさせてくれるのです。
イヤ、むしろ、自分の匂いと他人匂いとが、重なり合って、混ざり合って、溶け合うところに、本当の「共感関係」があることを教えているのです。
これが、人間関係というものでしょう!

体臭や多汗で悩んでいる若者たちよ!今勇気をもって旅に出ようではないですか。人間関係を実感する旅へ。

難しいことは必要ありません。子供たちに、あなたの優しさを伝えてあげるのです。あなたのやさしい言葉(日本語)を教えてあげるのです。

子供たちと一緒になって、文字通り汗を流して、ボランティア体験をしたとしたら、そこには、汗やニオイの悩みとは無縁な「もうひとりの自分」を見出すことができるでしょう。